株式会社 釜屋
株式会社 釜屋(かまや)は、清酒「力士」を製造販売する、埼玉県さいたま市に本社及び醸造所を置く蔵元。
歴史[1]
寛延元年 (1748年)
近江商人であった釜屋新八が、中山道の宿場町のあった現在の地で酒造業を始める。武蔵野の優秀な酒米と近くを流れる利根川の豊富な水に目をつけ、また中山道と日光街道という主要な街道で、大商圏江戸を近くにするという地の利を得て創業した。
1785年 (天明5年)
銘柄「力士」 命名
初代釜屋新八の後を継いだ新八の兄、二代目小森久左衛門が酒銘を「力士」と命名する。この「力士」は中国の歌人李白の「襄陽歌」の一節に由来しており、舒州杓 力士鐺(舒州の杓よ 力士の燗鍋よ) 李白與爾同死生(李白は汝らと生死を共にしよう)「舒州の杓」というのは、この頃(唐代)の酒器の名産地「舒州」で作られた柄杓のこと。「力士の燗鍋(かんなべ)」というのは、磁器の名陶工「力士」が作った燗鍋のこと。ともに李白が愛した酒器だった、といわれている。
1834年 (天保5年)
店舗全焼の災難
天保5年2月19日、全町ほとんど焼失する大火災が発生し、釜屋も酒造庫一棟を残し、店・居宅・質蔵・家財・貯蔵米の一切を焼失してしまった。しかし四代目久左衛門は動ずることなく、着々とその復興を計画し、家業の挽回に力を尽くした。そのかいあってか土地の代官所から復興資金として御用達金300両を下げ渡され、その資金を元に事業復興を遂げた。
新八著家法書には「商品の仕入れをおろそかにすることなく、良質の品を薄利で売ること、そしてお得意様の信用を得ることが家業を永続きさせるゆえんである」と残されている。
1886年 (明治19年)
貯酒庫建築(飢饉による難民の救済)
明治19年、関東地方を襲った大飢饉により多くの難民が発生してしまった。その際、難民救済の一助にと釜屋では貯酒庫の建築を実施した。総欅造りの二階建、建坪200坪という豪壮な一大貯酒庫は現在も酒の貯蔵庫として使用しており、難民救済が目的であったことから当時の人は「釜屋のお助け普請」と呼んで感謝した、と伝えられている。
1917年 (大正6年)
釜屋の前身である合名会社小森商店を発足。
1925年 (大正14年)
宮内省納品と品評会受賞
大正12年に発生した関東大震災により釜屋も大きな損害を被り、しばらく休業せざるを得ない状態となってしまった。さらに世の中は震災不況となり、酒造業界もすこぶる不振でった。苦境に立たされていた釜屋であったが、大正14年、清酒力士が宮内省納品の光栄に浴し、さらに昭和2年には全国酒類品評会において清酒力士が一等賞を受賞。品質が認められ、社内は活気づき、販売量を大きく伸ばし、この苦境を乗り切った。
1949年 昭和24年)
株式会社釜屋 設立。
1957年 (昭和32年)
福寿神社 完成。
1978年 (昭和53年)
昭和新蔵(仕込蔵) 完成。
1994年 (平成6年)
吟醸蔵 完成。
力士看板
日本には、株式会社釜屋の手により清酒「力士」の看板が立てられている場所がある。
注記