機内にて

「お客様の中に獣医様はいらっしゃいませんか!?」

キャビン・アテンダントの声に、わたしは目を覚ました。

飛行機が空港を飛び立ってからどれくらい経ったのかも、にわかには把握できないほど眠っていた。

「……すいません、わたしは医者ですが」

そう言ってそのキャビン・アテンダントに声をかけたが、彼女は少々困った表情で、

「あの……獣医様ではないのですよね?」

と聞き返してきた。

「いえ、外科医です」

一瞬この人に、いや、という感じの迷いを彼女は見せ、

「ではもし、他に獣医様がいらっしゃらないようであればお願いします」

と言い残して機内後方へ同じ声掛けをしながら歩いて行った。しばらくして私のそばへ戻ってきた彼女は、

「誠に恐縮なのですが……診ていただけますでしょうか」

と耳元でささやいた。うなずいて立ち上がったわたしは彼女のあとに続き、患者がいるとおぼしきファースト・クラスのエリアへと向かった。

ウミガメが涙を流していた。わたしは状況を問う。

「産卵ですか」

「ええ。絶滅危惧種のアオウミガメ様です」

「なるほどそれでファースト・クラスに」

「もう小一時間泣かれておられます」

「……手を」

「えっ」

「手を握っておやりなさい」

「は、はい」

そう、いかに医者であろうとも、固い甲羅に覆われた身重(みおも)の生物を問診する事は困難だ。今必要なのは「わたしたちがついているぞ」という応援を、言葉の通じないこの動物界脊索動物門爬虫綱カメ目ウミガメ科に属する生き物に伝えてあげる事なのだ。

キャビン・アテンダントは亀の手(もしくはヒレだろうか)を握りつつこぼす。

「こういう時……自分の無力を感じてしまいます。わたしは6か国語を喋れますが、そのどれもがこのお客様とコミュニケートする手段とはならないなんて」

「ではますます握っておやりなさい。今大切なのは言葉ではありません」

「わかりました。動きがあり次第現場からお伝えしますので、ひとまずお席にお戻りになっていてください」

わたしは自分のシートに戻り、他のキャビン・アテンダントにナイトキャップとしてテキーラを注文した。塩を舐めては呑み舐めては呑みという行為をしばらく続け、ちょっともう立ち上がれないな、という程度まで酔ってから再び眠りについた。

わたしを起こそうと何度も激しく揺り動かしたのだ、という。

アオウミガメは見事に絶命していた。しかしその表情には、何かをやりとげたぞ、という満足げな雰囲気が残っていた。とはいえわたしもアオウミガメの表情をまざまざと見る機会など滅多にないから、これは個人的な感想にすぎないのだが。

卵を20個産んでいた。門外漢である私には、これが一般的なアオウミガメの出産時排卵数として多いのか少ないのかすら分からなかった。ただ一つ言えるのは、この卵から生まれてくる新しい生命を守る事が、人類に課せられた使命だという事だった。私は未だ呆然とウミガメの手を握ったままのキャビン・アテンダントに優しく話しかけた。

「……絶滅危惧種だと言ったね」

彼女は何も答えずにただ頷いた。

「どうだろう、この卵だが……20個もある。さっきはここに、親アオウミガメが1匹いただけだった。それが今は、その遺伝子を継ぐ命が20個もあるんだ。さっきよりは絶滅危惧感が薄れた、そうは思わないかい?」

黙って聞いている。

「しかしやはり……絶滅危惧ってギリギリな感じが、アオウミガメには似合うと思うんだ。だからこれを……そうだな、10個ぐらいに減らした方が、絶滅危惧感は高まると思わないかい? この子たちを助けなきゃ! って支援者がより増えるとは思わないかい?」

ハッと顔を上げた彼女に、わたしは改めて優しく問いかける。

「アオウミガメの卵を食べた事はあるかい?」

彼女のお腹が、ぐるぐるー、と鳴った。ファースト・クラス・エリアにいた他のお客さんたちはそれを聞いて思わずブッ、と吹き出してしまった。

「ここにいる皆さんと君で、計10人になる。みんながひとつずつこの卵を食べ、残りの10個を残すことで絶滅危惧感を高めてみるというのはどうだろうか?」

「でも、それだとお客様が……」

「わたしの分はいいんだ。アオウミガメの卵なら、こないだたらふく食べたばかりだからね。地元の漁師さんから『旦那、これじゃあこの島からカメがいなくなっちまいまさぁ』ってこっぴどく叱られたっけ。とにかくそんな訳で、アオウミガメの卵はもうしばらく食べたくないから、今日はいいんだ。あともし他に理由があるとすれば、それは”自己犠牲”ってやつさ」

堰(せき)を切ったように彼女はボロボロと泣き始めた。それを見た乗客たちも良い話を聞いたという面持ちでもらい泣きをし、誰からともなく拍手が起き、それらが静まってから皆で卵がそれぞれのシートにサーヴされるのを待った。アオウミガメの卵はそれはそれはもう美味しくて、おわかりしない人がいないほどだった。

自然からの恩恵、それをわたし達は決して忘れてはならないのかもしれない。

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